錬金日記

科学とオカルトの境界線

生きる覚悟と死ぬ覚悟

 

言葉にするとどうしても違和感を生んでしまう。だけどこれは本質だ。

 

まず、生きているものは、かならず死ぬ。あたりまえだ。

 

そこで人間はこう考える。「どう生きるべきか?」と。「生き方」を考える。

 

さて、受け入れがたいが「生き方」を考えるということは、「死に方」を考えるのと同じだ。

 

「生き方」を考えるとは「死に方」を考えることの裏側を見ているに過ぎない。

 

自分はいつ、どこで、どうやって死ぬのか?

 

若くして死ぬのか、老いて死ぬのか、

 

病院で死ぬのか、自宅で死ぬのか、

 

仕事中の会社で死ぬのか、街中で死ぬのか、道端で死ぬのか、

 

病気で死ぬのか、事故で死ぬのか、

 

誰かに殺されるのか、自らを殺すのか、

 

そのとき何をしていて、どんな人間関係の中で、

 

そして、「何を残して」死ぬのか。

 

「死に方」から「生き方」を考えることができそうだ。これが本来の「生き方」の考え方なのかもしれない。

 

ところで、いくら天国や極楽浄土を信じる人であっても、死んでまでそこに行きたいとは思わない。

 

だから「生き方」を考えるならば「生きる覚悟」を持ちたい。

 

つまり、そう、「生きる覚悟」とは「死ぬ覚悟」だ。

 

生きる覚悟を持つということは、死ぬ覚悟を持つということだ。

 

言葉にすると生まれる違和感はここにある。というのも、生きる覚悟を持っていそうな人を思い浮かべても、その人が「死ぬ覚悟」を持っているとは思えない。

 

だから言い方を変えてみよう。

 

すなわち「死を受け入れる覚悟」と。「死を受け入れる器」と言うともっと身近に感じられるかもしれない。

 

「生き方」とは「死を受け入れる器」を作ることに他ならない。

 

世の中の、覚悟を決めなければ生きてゆけない星の元に生まれた人たちへ。

 

See you!