錬金日記

科学とオカルトの境界線

だから人は見て見ぬ振りをする

 

一度知ってしまったら、知らなかったころには戻れない。

 

そんなことをこの1、2年ほど痛感している。

 

このあとの人生において、今まで多くの時間をともに過ごしてした多くの人たちと、分かり合えることはほとんどないだろう。

 

いや、もしかしたら人生ってそういうものなのかもしれない。

 

諸行無常というように、人生における人間関係も、つねに移りゆくものなのかもしれない。

 

かもしれない、というのは、僕がまだ20代の若輩者だから腑に落ちていない可能性がある、ということだ。

 

ところで、僕の原動力は向上心と探究心だ。

 

だからずっと「ものごとの本質を知りたい」と思い、いろんな人にあって話を聞き、古今東西の本を読んできた。

 

いろんなことを知った。

 

日常生活で触れる話、たとえ少し込み入った話でも、「ああそういうことね、それはこうこう、あのことだね」と思ってしまうようになった。

 

古今東西で人というのは、考えていることはほとんど変わらない。

 

いつの時代のどんな文化であっても、抱えている課題や悩みは、たいして変わらないのだ。本当に。

 

これは傲慢か?僕の見えている世界が狭いのか?

 

僕が大きな欠陥を抱えているとか、とても色の濃いメガネをかけているとか、もちろんそういう可能性はある。

 

だけど、僕の考えって、そんなに的外れではないと思うし、問題はそういうことではなくて、「だからなんなんだ」というだと思う。

 

そもそも頭で考えすぎで、体や心を使っていない、ただの勘違い野郎、うん、これもあるな。

 

僕が20代で分かったもっとも大きなことな2つのことがある。

 

一つは、僕はいかにものを知らないのか、ということ。

 

新しいことを知れば知るほど、「今までこんなことも知らなかったのか」と思い知らされる。

 

おおよそふつうに生きていたら知りようもないことをたくさん見聞きしたが、世界は広すぎるぜ、と思うわけだ。

 

いろんなことを考える人がいるんだなあ、と。もう途方もないわあ、と。

 

もう一つは、ほとんどの人は自分がいかにものを知らないかということを自覚していない、ということ。

 

なんでこんな大切なことが、世間では知られていないんだ、と思うことなんて日常茶飯事だ。

 

世間で当たり前とされているようなことでも、実はちょっと考えてみると、オカシイよね、ということなんて掃いて捨てるほどある。

 

しかし世の中の8割の人は、それをなんの抵抗もなく受け入れる。

 

ものごとのコトワリよりも、「みんなと同じであること」が大切なのだ。

 

みんなが当たり前と思っていることがらに疑問を投げかけようものなら、「めんどくさい人」「なにかカンチガイしている人」などと反社会的態度と見られるわけだ。

 

さて、ここまで書いてこういう声が聞こえてきそうだ。

 

「で、お前はなにが言いたいんだ?」

 

そこは、見て見ぬ振りをさせてくだせぇ。(話がまとまっていない)

 

See you!

 

他人の意見を聞かない人 (角川新書)

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